「あれ、おかしいな」と自覚したのは、高校生の頃だった。
授業中、先生が言っている言葉が、急に理解できなくなった。
音は聞こえている。
隣の男子がシャーペンをかちかち鳴らす音だって、
グランドからの歓声らしき音だって聞こえる。
でも、目の前の先生の日本語が理解できない。
頭の中に入ってくる音を日本語に変換できない。
理解が追いつかない。
外国語を聞いているかのように、頭の中でひとつも意味が理解できない!
そのときはパニックになりながらも、板書をひたすら写し取ることに専念した。
このことを友人に話してみたが、反応は薄かった。
しかし、翌日には、何事もなかったかのように、また理解できるようになった。
昨日は疲れていたのかも、と思う程度でこのことは忘れていた。
***
時は流れ、
新型コロナが猛威をふるい始め、自粛規制が広がるなか、
自分と身内のことで気が狂いそうな日々だった。
前年の仙骨骨折は、その予兆だったのかもしれない。
「軸が折れる」という予兆。
仕事の雇い止め、一度目の手術、引越し、妹の出産1、二度の手術、祖父の死、母のくも膜下出血、妹の出産2、母の退院後の生活、父との決裂。
どうなってんのよ、わたしの人生!
***
「あれ、やっぱりおかしいかも」
ようやく外に出る気になって、三年ぶりに働き出した2023年。
窓口の担当になったことで気づいた。
次々にやってくる利用者の声が、ところどころ、あるいはまったく聞き取れない。
皆がマスクをして、受付窓口にはビニールカーテンが張り巡らされていた。
口元がマスクで覆われ、単語から内容を推測することも難しい。
ビニールカーテン越しに片耳を近づけるが、今度は表情が見えない。
転勤して初めての人、場所、久しぶりの仕事だからかな。
少人数で、静かな環境での生活が続いたから、聞き取る力が鈍っているのかもしれない。
そんなふうに考えてみるけど、でもやっぱりおかしい気がする。
そこで、すかさず検索。
見つけた言葉が「APD:聴覚情報処理障害」だった。
二十年前の記憶がよみがえり、時を超えて腑に落ちた。